ゆるゆるSEの日常

導かれて歩む道

先日飲み会で中学受験の話になり、中学の入学式と大学の入学式で「あなた方は神に選ばれてここにいます。」と言われたことを思い出した。

 

私は中学受験をしてミッションスクール(プロテスタント宣教師によって設立されたキリスト教学校)の中高一貫校に進学し、大学も予期せずプロテスタントを掲げる女子大へ進学した。

中学の入学式では校長からのメッセージで冒頭のこと言われたことが非常に衝撃的だった。当時、受験を終えたばかりの自分にとっては試験を勝ち抜いてきたからここにいるのであって、神の意思など関係ないと考えていたからだ。

大学の入学式でも同じようなメッセージを受けた。こちらは中学で一度聞いていたことに加えて、このメッセージはミッションスクールの入学式あるあるだと知っていたため、予想通りだった。

 

中学の入学式も、大学の入学式もそれぞれ校長のメッセージにそんなこと言われたって、と全然納得していなかった。自分の力で入試を終えた結果だと思っていたし、学力勝負の結果が神の意思によって左右されてたまるかと思っていた。

特に大学は中高の温室を出て初めて広がる世界が嫌になり、不貞腐れていた時期もちょっと長かった。人間関係も、大学生活も、強い希望は元からなかったが自分の予想を遥かに超える苦手な人たちとの出会いに面食らってばかりだった。だからより一層、神に私の人生を変えられたく無いと思ったし、神は私を救ってくれないと恨んだりもした。

 

しかし、改めて飲み会の帰り道にふと、神に導かれていると入学式で伝えられるのは一つの救いだなと思った。

思った形での受験とならずに落ち込んだ人にとって、今いるところが神に導かれた先なのだと自分の中で折り合いをつける手段になるからだ。もちろん前述の私のように納得できない人はたくさんいるだろうし、気持ちの折り合いの付け方として一時的かもしれない。苦しい気持ちもわかるし、やはり神に左右されてたまるかという気持ちになるかもしれない。

しかし、全ては自分の意志と努力で決めると考えたとき、失敗した現実も選択を間違えたという後悔も全てが自分に跳ね返ってきてしまう。自分が選び勝ち取ったという言葉は聞こえが良いが、辛くなったときに自分の逃げ道を無くしてただ自分を追い込むことになってしまう。

そう思えば、子供騙しのように感じるかもしれないが、言葉一つで一つの山を越えて気持ちを落ち着けて、次の目標を見据えることができるのならば利用して損はないと思う。

 

受験や就活に限れば、行きたかった学校に行けなかったけれど、10年後振り返ればその選択が最良だったかもしれない。

実際に私は中学受験で落ちた学校が中高在学中に週刊誌にいじめでホットトピックとして扱われていた。就活で行けなかった企業は株価暴落したり鳴り物入りのプロジェクトがコロナによって当初と比べて大きな計画変更を余儀なくされ事業撤退に追い込まれている。

現在の私は落ち込んだ時に声をかけてくれる中高の友人に恵まれ、1ヶ月前に決めたアメリカ弾丸旅行に行ったりするし、会社はなんかテレビでニュースになり株価上がってるらしいし、会社の同期と酒飲み旅行に行ったりなんてことも。

その瞬間の悔しさに囚われずに前を向いて走ったほうが世界が広がって思っていたよりも楽しくなっていいと思っている。

 

仕事においても自分では納得できないことは多々あるし、自分で動いてもどうにもならないことがないとはいえない。

そんなときはこれが今私の前に敷かれたレールだけれど、どこかに切り替えポイントがあるはず、だからこの分岐点を作ったり見つけたりするまで一つ与えられた道を頑張って走ってみようと思うようにしている。

人生悔いてばかりよりも失敗は失敗として受け止めつつ前を見たほうが良いに決まってる。逃げたいときは逃げちゃうし、それでも生きてれば何かしら楽しいこともあるはず。

 

ということで、次の炎上プロジェクトを楽しみに私もまだまだ頑張ってサラリーマンするどー!